転職コラムキャリアに効く一冊

キャリア開発に役立つ書籍を毎月ご紹介しています。

2015年4月

「自分」の壁
養老 孟司 (著)

「バカの壁」から始まった養老先生の「壁シリーズ」の最終版とも言うべき珠玉の一冊。東大解剖学教授でありながら、昆虫をこよなく愛してやまない先生の痛快人生論。

「自分探し」「自分の個性を探して伸ばす」いう欧米流のやり方ではなく、「共生」を受け入れる文化をもつ日本では、他者を理解することで自分を生かすことが容易になると先生は説いています。

自分がどこに向かうべきかわかっている人は、自分の位置を認識し、そのまま目指す方向に向かっていけばいいですが、向かうべき方向がわかっていないのに地図情報ばかり見て、結局自分の位置がわかっていないと地図の情報も移動の労力も無駄になるだけです。

自分探しをするというよりは、周りの現実をよく理解し、現実的に必要なこと、求められていること、起きている問題を解決していくことで、自分の個性はおのずと見えてきます。他者を理解し、他者との共通点を見出そうとすれば、どうしても他者と違うことが見えてくるはずです。自分以外の存在を意識せよという養老先生の主張は、人間のみならず、身の回りの木や昆虫などにも向けられます。

本書の最後に、養老先生が要約された内容です。

情報過多ともいえる現在のネット社会で現実に起きている問題を解決するには、学校教育においても、問題回避では問題の本質的解決ができない。ましてや問題から逃げる癖がついているようでは、上手に対処ができないと私は読み取ります。

身体的な問題、遺伝的な問題などは別として、人間関係や仕事にかかわることなどの世間の問題というのは、どこかで自分のこれまでにやってきたことのツケである場合が多い。そう考えていいのではないか、と思います。
(中略) 自分がどの程度のものまで飲み込むことができるのか。さまざまな人とつきあうことは、それを知るために役に立ちます。 こういうことを学ぶうえでは、時に学校教育は邪魔になります。標準を決めて試験で優劣を決めることはできても、世の中を生きていくうえでは、それ以外のことのほうが大切な場合が、ほとんどだからです。
他人とかかわり、ときには面倒を背負い込む。そういう状況を客観的に見て、楽しめるような心境になれれば相当なものでしょう。自分がどこまでできるか、できないか。それについて迷いが生じるのは当然です。特に、若い人ならば迷うことばかりでしょう。しかし、社会で生きるというのは、そのように迷う、ということなのです。
どの程度の負担ならば「胃袋」が無事なのか、飲み込む前に明確にわかるわけではありません。その意味では、運に左右されるところもあるし、賭けになってしまう部分もあるでしょう。
なにかにぶつかり、迷い、挑戦し、失敗し、ということを繰り返すことになります。
しかし、そうやって自分で育ててきた感覚のことを、「自信」というのです。

宗教的対峙、原子力問題、幽体離脱と臨死体験、格差社会と自殺率、情報過多時代への警鐘、メタメッセージ(本来持っている意味を超えて、別の見方・立場からの意味を与えるメッセージ)の怖さ、動物の進化、死と死体、鎖国の効果、江戸時代の人間の先進性、人材登用の妙、本当のパラダイムシフトはまだ来ていないこと、などテーマは多岐にわたりますが、それぞれが本書の論理の展開を組み立てていくための大事なテーマになっています。

その中でも、キャリアを考える上で、本書を推薦することになった箇所をあげておきます。

「私の死」は存在しない
死には三種類ある、と本書以前に出した本の中でもお話ししてきました。(中略)一人称の死は「自分の死」、二人称の死は「身内や友人など知っている人の死」、三人称の死は「知らない人の死」。
このうち、一人称の死は、大きな問題のようでいて、よく考えると当人にとっては関係のないものです。死んだ瞬間から本人はいないのだから、「私」には関係がない。もしも霊になって天から眺めていても、「私」には手も足も出ません。そのことは現実が証明しています。
また、三人称の死も、基本的に私たちには影響しません。もちろん、たとえ知らない人の死でも、ニュース等で知れば、心が痛むのは自然なことでしょう。しかし、ニュースには流れないだけで、今この瞬間にも日本中、世界中で人は死んでいます。(中略)
すると、私たちにとって「死」とは実は基本的に、二人称の死のことになります。(中略)身内など知っている人の死ほど、私たちの現実に影響を及ぼすものはありません。

意味を持っていたのが、昔の修身(道徳)の教えでしょう。たとえば「親孝行」。人間が最初につきあう自分以外の人は、親です。それを徹底的に大切にしろ、とはどういうことか。親のほうは「子どもは親の言うことを聞くべきだ」という教えだと考えているかもしれません。でも、それは誤解です。(中略)「お前はお前だけのものじゃないよ」ということを実は教えていたのです。

私たちの根本には「我を消す」という考えがあるからです。このような日本的な考えについては、批判的な人もいることでしょう。
「そんなことだから、日本はアメリカや中国と対等に渡り合えないんだ。彼らの『個』の力の強さに勝つには、日本人も、『個』をもっと強烈に主張できるようにならなければいけない」 実際、これはある面から見れば、日本の「弱さ」なのでしょう。日本というよりも仏教的な考え方の持つ「弱さ」だといったほうがいいかもしれません。(中略)モンゴル、チベット、タイ、スリランカ、ブータン、マレーシア、ラオス、カンボジア、ベトナムには、まだお寺が残っている。(中略)自然が残っているのです。
(中略)
自然が残っていること一つを取っても、日本的な考え方が悪いとは言えないように思います。

「我を消す」といっても、「一億玉砕」「特攻」を推奨するつもりは、まったくありません。意識は一つになりやすいから、みんなでおかしな方向に一致して暴走することもあります。それが日本では一億玉砕、ドイツではナチズム、アメリカならばマッカーシズム(反共主義)という形で現れたのでしょう。これは注意しなくてはならない点です。 それを唯一止める方法は、意識を疑うことです。決して今の自分の考え、意識は絶対的なものではない。その視点を常に持っておくことです。(中略)「一億玉砕」のたぐいを言う人は、必ずあるイデオロギーに基づいているわけです。そのイデオロギーはもちろん意識の産物です。
言葉でつじつまをあわせているから、理屈としては成り立っていることもあるでしょう。しかし、それは現実とは別のものです。あくまでも言葉に過ぎません。
イデオロギーや言葉よりは、そこに生えている草木のほうがよほどたしかでしょう。(中略)「自分の意識では処理しきれないものが、この世には山ほどある」
そのことを体感しておく必要があります。

別の言い方をすれば、「意識はどの程度信用できるものなのか」という疑いを常にもっておいたほうがいい、ということです。

少し長文の引用になりましたが、常々キャリアを考える時に自分が何者かを知ることは成功の秘訣になると申し上げていますが、それは「自分探しをしろ」ということではありません。キャリアデザインや人生設計を無理に作成して、本当に自分のやりたいこともわからず、自己分析試験の結果だけを現実だと勘違いして、自分が向かうべき方向やゴールも幻想のようなものを描き、自分の立ち位置も勘違いしている、そして自分の意識や直観こそ正しいと信じて疑わない。そんなタイプの人こそ、自分の決定を、後日、誤りだったと後悔することが多いのです。自分をいつも疑うこと、自分を信じること、その別れ目で人間はいつも迷うのでしょう。

「自信」は自分で育てるもの、経験からしか生まれないもの、失敗や挑戦から生まれるもの。それは、同時に、自分の周りの現実の課題や問題、自分が取り組むべき人生と自分に立ち向かうことだと思います。それが自分と他者を生かすことにつながる唯一の方法になります。

本書は、いたるところに、生きること、死ぬこと、を見つめてきた養老先生の言葉にあふれています。

言葉だけを信じないで、その人に会うことの大切さも、本書は勧めています。 私も今度は養老先生に会いに行きたいと思います。