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2014年3月

風姿花伝
世阿弥 (著), 野上豊一郎・西尾実(校訂)

恥ずかしながら、私は小学生のころ学校で鑑賞した能が退屈でその価値などまったく理解できず、それ以来、歌舞伎や能について縁のない人生を送ってきました。観阿弥、世阿弥、音阿弥が生きた室町時代や応仁の乱のことなどを歴史の授業で知る程度のことでした。

そして社会人になって、白洲正子(随筆家。幼時より能に親しみ、14歳で女性として初めて能の舞台に立つ。夫は白洲次郎)が愛する素晴らしい能の世界のことを知ろうと「風姿花傳(ふうしかでん)」を読んでみましたが、難解すぎて半ばあきらめもしていました。ただその後もさまざまな文人が能や「風姿花伝」からの言葉を引用していることから、能の世界に対する興味は深まる一方でした。「風姿花伝」を再読することになったのは、偶然見たNHKのテレビ放送で、土屋先生の解説が素晴らしいものであったことがきっかけで、改めて読んでみることにした次第です。1958年書の現代版とはいえ、よほど古文になれた方でないと半世紀前の現代語校訂は、すでに私たちには古文に属するほど難解で、直に判りえるものではありません。従い、NHKテキストとセットで読むか、土屋先生の番組の再放送を併せて観ることをお勧めします。

先代、天才観阿弥が創造、開発し、他の田楽や猿楽とは一線を画するものにイノベーションを起こしたものを、息子の世阿弥が22歳で一座のリーダーとなり、37歳から書き示し「風姿花伝」として世に残してくれました。これは世阿弥が子孫のためだけのみに限定した、庭訓として書き残したもので、今世紀まで門外不出とされたものでした。その後世阿弥は、能をシステムとして落とし込み、そのビジネスモデルを確立。天才でなくても踏襲することを可能にしました。すなわちその価値を持続可能にしたのです。また世阿弥は、作品を作る天才でもあり、その能のシステムに乗せることができる作品を50作以上も書きあげることができました。

創業者(観阿弥)が天才ゆえになし得なかった「書物として体系化」「ビジネスモデル化」「ブランド化」さらには今日まで継続する「持続可能性」まで実現化した世阿弥のその偉業は、とてつもなく大きなものであったと言わざるを得ません。

ただ残念なことに後世は作品を創造する才には恵まれませんでした。今の能楽が魅力を失ってしまっている原因の一つは、いまだに世阿弥のシステムと作品を遺産として、新しい創造ができないままだからだと思われます。

まるで、ベンチャー企業の創業者(観阿弥)と、二代目社長(世阿弥)が大企業に育て上げた後、イノベーションが起こっていない状況と同じかもしれません。

「新しきものこそ面白い。花と、面白きと、珍しきと、これ3つは同じ心なり」といった世阿弥の精神は、今の能からは感じることさえできないのではないでしょうか。

観阿弥や世阿弥の時代には、たくさんの芸能団体と競っていた時代で、その競争の中からイノベーションが起き、トップの座を確立し、その秘訣の書が「風姿花伝」なのです。

世阿弥が残したこの書からは、決して、能や芸能についての能芸評論ではなく、長い人生、プロフェショナルとして長く歩んでゆくための秘訣が示されています。

第一の書、「年来稽古條々」には、人生を七つのステージ(7歳、12~13歳、17~18歳、24~25歳、34~35歳、44~45歳、55歳餘)に分けて述べています。

7歳の時は可愛さだけで十分に花なのであまり能の仕草をさせて生臭くするなという教えから始まり、稽古を重ね、17~18歳あたりでそれまでの若いころの花は失せるころでもあり、このころ能を生涯の仕事と決心し、稽古に励むか、辞めてしまうか重要な年齢層だと述べています。人が笑おうが、ひたすら未来を信じて、訓練を重ねるべきと言えましょう。

25歳あたりで体がしっかり発達し落ち着くころとなり、このころ、人に評価され、花と呼ばれるようになっても、初心を忘れないことが大事とし稽古をさらに増やすべき、と述べています。やがてその花はいつまでも続くものではなく失せるものと知っておくべきと戒めています。この時分の花を自分の実力だと勘違いすると、真賓の花、すなわち枯れることがないその人に属する花や徳を得ることがない。初心というのはこの心だというのです。勘違いしてはいけないと言うことです。

35歳は、人生の盛りである、社会的な地位も名声も得ることでしょう。どれだけ上手に能を舞うことができても、それでもなお、高慢になっては40歳以上になってから、落ち目になってゆくことを戒め、なお慎むべしといっているのです。過去を思い直し、未来に思いをはせることや準備することができるといっています。

そして45歳、外見の花はなくなろうとも、このころまでに失うことがなかった自分の価値こそが本当の花なのだと言っています。いやおうなしに老いを感じ始める頃こそ、それを正しく受け入れてこそ、我が身を知る心、得たる人の心なるべしと力説しています。

50歳餘、いよいよ体も声も若いころのように達者ではないが、それまで熟練を重ねてきたものであれば、善処見所は少なくとも、花は残るべしと述べています。全力で体を動かすことなく、衆目が見る中で、その存在感から、ほんの少しの所作で観客は花を感じる。心に残るパフォーマンスができる。若いころのような所作は不要だと言っています。老骨にさえ花は残るものと述べているのです。

世阿弥の教えは、その年齢、年齢にあわせた花があり、有頂天になることなく、真摯に仕事に取り組み、公案を続けていれば、老いを恐れることはないと述べているように感じます。

「風姿花伝」

~冒頭略~
されば、古希を学び、新しきを賞する中にも、全く、風流を邪(よこしま)にすることなかれ。ただ、言葉賎(いや)しからずして、姿幽玄ならんを(承けたる)達人とは申すべきか。先づ(この)道に至らんと思はん者は、非道を行ずべからず。ただし、歌道は風月延年(ふうげつえんねん)の飾りなれば、もつともこれを用ふべし。およそ、若年より以来、見聞き及ぶところの稽古の條々、大概注し置くところなり。

一、好色、博奕(ばくえき)、大酒、三重戒、これ古人の掟なり。
一、稽古は強かれ、情識(*)はなかれとなり。
*情識:自分勝手な慢心から生じる争い心。

第五 奥儀讃嘆云(あうぎにさんたんしていわく)
そもそも、風姿花傳の條々、大方、外見の憚り、子孫の庭訓のため注すといへども、ただ望む所の本意とは、常世、この道の輩(ともがら)を見るに、芸の嗜みは疎かにて、非道のみ行じ、たまたま常芸に至る時も、ただ一夕(いっせき)の見證(けしょう)、一旦の名利に染みて、源を忘れて流れを失ふ事、道すでに廃る時節かと、これを嘆くのみなり。しかれば、道を嗜み、芸を重んずる所、私なくば、などかその徳を得ざらん。殊さら、この芸、その風を繋ぐといへども、自力より出づる振舞いあれば、語にも及び難し。その風を得て、心より心に傳はる花なれば、風姿花傳(伝)と名附く。」

いかがですか?

かなり難解だと思いますが、読み込んでゆくと、みなさんが耳にした言葉や教えが書かれています。

いくつかここで、ピックアップしておきましょう。詳しくは本文を読んで味わってください。

「風姿花伝」以外にも「花鏡」には、世阿弥が生み出した、皆さんがよくご存じの言葉が沢山使われています。世阿弥は、今でいう一流のコピーライターであったのかもしれません。

  • 秘すれば花『風姿花伝』
    秘する花を知る事。秘すれば花なり。秘せずは花なるべからずとなり。この分け目を知る事、肝要の花なり。
  • 初心忘るべからず『花鏡』
    是非の初心忘るべからず、時々の初心忘るべからず、老後の初心忘るべからず
  • 幽玄『花鏡』
  • 時節感当(じせつかんとう)『花鏡』
  • 離見の見/目前心後(りけんのけん/もくぜんしんご)『花鏡』
  • 信あれば徳あるべし『風姿花伝』
  • 住する所なきを、まづ花と知るべし『風姿花伝』

細かくはここでは解説しませんが、どの言葉も含蓄に富んでいます。

知っていると思わず、ぜひ再読されるとよいと思います。目から鱗となると思います。

風姿花伝 出版社:岩波書店
著者:世阿弥 (著), 野上豊一郎・西尾実(校訂)

100分de名著(2014年1月) NHKテレビテキスト 世阿弥「風姿花伝」
出版社:NHK出版
著者:土屋恵一郎
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