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2017年10月

イノベーターたちの日本史 ~近代日本の創造的対応~
米倉 誠一郎 (著)

今月ご紹介するのは、1850年頃から1950年あたりのまでの、江戸・明治・大正・昭和にまたがる日本の近代という歴史が、いかに創造的なイノベーターたちに彩られ、日本を経済大国に至らせたかを立証する書です。単なるベンチャー、起業家について語る本ではありません。近代に覚醒し、西洋先進国から押し寄せる津波のような外生的挑戦や刺激に、彼らがどのように創造的に対応したか…まさに“Japanese Entrepreneur”と呼ぶにふさわしい人物たちに光を当て、人と人がどう時代を紡いでいったかを丹念な調査により書き上げた、300ページを超える大作です。

財閥と呼ばれるコングロマリットの形成、金融や工業の自在な発展、さらには戦後の軽工業から重化学工業の勃興、近代産業化、科学立国の形成までもなし得た“日本のイノベーター”たち。彼らが苦境にたった時に何を決心し、努力したのかがつぶさに記され、その苦悩と成功、生き様に触れることができます。まるで彼らのたどった人生の疑似体験をするようで、心躍らせながら読み進めることができました。

著者は、一橋大学イノベーション研究センター特任教授などを務めておられる米倉誠一郎氏。氏が本書の中で核となる概念として取り上げたのが“Creative Response=創造的対応”です。これは、「イノベーションの父」とも呼ばれるオーストリア人学者シュムペーターが1947年に発表した小論文で用いた概念。米倉氏はその小論分の一説を抜粋し、以下のように紹介しています。

そして彼は続ける。「経済理論において正当な評価を得ていない分野は、状況の変化に対する対応の仕方には相違があるということである」と。その相違とは、現存する慣行の延長線上で変化に「順応(an adaptive response)」することと、現存する慣行のはるか枠外から「創造的に対応」することとの違いである。そして、「この創造的対応に関する研究は、アントルプルヌアシップ(注:原文ママ)の研究と同じ領域の研究なのである」と締めくくる。

いま私たちは、かつて“日本のイノベーター”たちが生きたのと同じような『覚醒の時代』にいるのではないでしょうか? グローバルとローカルの衝突、経済格差から生じる衝突が世界中で起き、これまで(現代人が)体験したことのない規模の自然災害や環境問題が浮上し、AI革命の波が押し寄せています。先人たちがその時代、その時代で押し寄せてくる未来の潮流に、どう創造的に対応・行動・決断していったのか。すなわち“Creative Response=創造的対応”について学び取ることは、必ずや皆さんのキャリア選択、そして人生設計に役立つと思います。

“日本のイノベーター”たちには、無名有力の巨人がじつに沢山いました。高島秋帆、笠井順八、三野村利左衛門、高峰譲吉、大河内正敏。そして大隈重信、益田孝、岩崎弥太郎。最後の3名についてはもちろん知っていましたが、それ以外の人物は、私も本書で初めて知ることとなりました。彼らの主張、行動、功績等について簡単に要約してご紹介します。

◆高島秋帆
火技の中興、洋平の開祖とも呼ばれる高島秋帆は、長崎出島の地方官史であり砲術指南であった。彼は軍備拡張を目指す当時の諸藩に輸入した大砲やピストルを商って利益を得、財を成した。だが同時に書物や知識、相当な技術と情報を収集し、それらの製造までを行い事業拡大する極めて企業家的行動をとっていた。ペルーなどの列強国が開国を迫る中、幕府や諸侯らは「海防をあつくして、攘夷敵打つべし」という攘夷論であったの対して、兵器で利益を得ていた高島の態度は意外にも違うものであった。彼がまとめ幕府に上申した「外国交易の建議」は、武力を交えない「和平開国通商」だったのである。高島はアヘン戦争についてのきめ細かい分析を行い、アメリカや列強国は無理難題を押し付け、開国通商に応じない日本を戦争に誘った上で、圧倒的な武力をもって日本を支配下に置くことが目的だと見抜いていた。それゆえ「交易により国を富ませ、兵を強くすべし」と主張し、他国の挑発に乗ることを戒めたという。優柔破断な幕府首脳陣や諸藩が混沌とする中、現実的で平和主義を貫いた高島の精神、状況認識力と論理性は現代にも通じるものである。

米倉氏が高島秋帆を本書の最初に取り上げた理由は、どの時代にも必要不可欠といえる彼の「情報感受性の高さ」に他なりません。じつはこの点は、後の章で紹介されるイノベーターたちに共通するポイントでもあります。

◆笠井順八
明治維新下では士族や公家を解体した上で、全く新しい国造りが行われた。「国立銀行条例」「秩序処分」そして「士族授産政策」は明治政府が行った創造的対応だったといえるが、下級武士の中からも“ザ・サムライカンパニー”と呼べるような組織を興した起業家が生まれていた。荻藩の下級藩士であった笠井順八は、財務会計の力を得て、新政府となった後も山口県の管史として行政手腕を発揮した。しかし官僚としての限界を感じて民間に転じ、あの小野田セメントを設立することとなる。その設立に際しては、同志から小額公債を集めて創業するなど、創意工夫の塊であった。また、会社の発展を推進しただけでなく、セメント技術の科学的発展にも強いリーダーシップを発揮。さらには優秀な人材に対して海外留学をさせる投資も行い、日本産業の礎を築いた。

◆三野村利左衛門・益田孝
江戸時代、「越後屋」として幕府・徳川家御用達の呉服商と両替商を営んでいた三井家。維新の頃には「三井組」といわれる三井家複数のパートナーシップ制(持ち株会社制のような形態)の組織であったが、沈みゆく幕府に五十万両もの貸付があり、家業の行方も危ぶまれる状態だった。そのような事態に対応するため、新興商人の三野村利左衛門を番頭、今でいえば同業のベンチャー経営者を事業継承の要となるCFOとして引き入れたのである。三野村は資本と経営の分離を行い、三越家を分家させ、200年続いた呉服業を譲渡。三井組を解散して三井銀行を設立した。これらは当然ながら、三井一族の反対を押し切ってのことであった。その後、改革断行の結果が出たことで、三野村は三井大元方総轄に任命された。
 
その後、明治新政府にとって金融と通商こそ重要であること、国が苦境に立たされていることを知り、新会社・三井物産の設立を思い立つ。ただ三野村は、自分を含めて近代事業に必要な知識をもった人材が社内の年配者にはいないことを承知していた。ちょうどその頃、大蔵省を退職した井上馨とその部下であった渋沢栄一、益田孝らが租税米の換金流通や高島炭鉱の流通売買を担当する「岡田組」といういわばベンチャー企業を立ち上げた。しかし井上が2年ほどで政界に戻ったため、三野村はその会社を三井物産として引き受け、同時に益田孝を社長として引き取った。当時、益田は28歳であった。

益田孝は三井物産の開祖と呼ばれていますが、社長に抜擢された所以は、やはり彼の「情報感受性の高さ」にあったのでしょう。学ぶべき外国語といえば漢文やオランダ語が主流の時代にあって、彼は少しとはいえ既に英語ができたといいます。15歳のときには、家来と偽り父親の海外視察にも同行。役人、商人としてさらに英語力を高めるなど、時流をとらえる先見の明に秀でていました。彼の企業家としての活躍ぶりは、本書の中でも読んでいて特にわくわくする箇所です。さらにMITの鉱山学科を卒業した三池炭鉱の技術長・団琢磨、ロンドン・キングスカレッジへの留学経験を持ち、山陽電鉄の立ち上げを成功させた中上川彦次郎、小泉首相の父君である小泉信吉なども登場してきて話はまるで現代のベンチャー立ち上げ奮闘記のごとき展開に。ファミリービジネス、事業継承など、現在日本が抱える課題にも通じる要素がたくさん出てきます。

また、今や誰もが知る三菱商事ですが、その一歩は岩崎弥太郎というアントレプレナー、その17歳年下の岩崎弥之助という秀才によって築かれました。その設立の過程を読むと、当時は財閥の構想こそが西洋列国に向かう「創造的対応」だったという米倉氏の主張にも納得がいきます。余談になりますが、海外ビジネススクールに留学する方は、本書を読んでおけば「財閥こそ日本独自のイノベーションであった」と面白い議論を展開できるかもしれません。

◆高峰譲吉・大河内正敏
高峰譲吉は、三共株式会社の創業者であり、科学者(工学博士・薬学博士)、実業家であった人物。タカジアスターゼ、アドレナリンという大発見をした一方で、工学大学校第一期生として農商務省に勤務しながら日本酒腐敗防止装置を製造販売。人造肥料会社の設立、さらにはアメリカで創薬開発ベンチャーを創業して巨万の財を成した。また、日本の工業は欧米の基礎研究の上に形成されているに過ぎないとの危機感から、理化学研究所(理研)の設立を提唱。その実現に尽力した。その理研の3代目所長が、大河内正敏である。東京帝国大学教授というアカデミック・バックグラウンドを持ちながら、理研の成果を大型ビジネスにまで昇華し、理研コンツェルンといわれる新興財閥を形成。彼が育てた科学技術、ハイテク産業、人材は多数であり、その功績は計り知れない。

本書で一貫して語られる“Creative Response=創造的対応”。私はこの言葉は、冒頭でも述べた通り、個々人のキャリアや人生設計にも大いに役立つものであると思います。

労働市場で取引対象となる(労働市場で価値のある)人材である間や、キャリアを順調に積んでいる間は、誰も悩むことも困ることもありません。しかしながら、所属する組織や社会が予見する間もなく激変し、自分自身が時代の進化に取り残されてしまった際に、人は、キャリアや人生の断絶を招いてします。

そのような、人生で転んでしまったり社会変化に押し流されたりするような時にこそ、この概念が助けとなるはず。“Creative Response=創造的対応”をもって自らのキャリアと人生を設計・再開発することで、くじけることなく前に進めるのではないでしょうか。

イノベーターたちの日本史 ~近代日本の創造的対応~ 出版社:東洋経済新報社
米倉 誠一郎 (著)
渡邊 光章
株式会社アクシアム
 代表取締役社長・キャリアコンサルタント
渡邊 光章

留学カウンセラーを経て、エグゼクティブサーチのコンサルタントとなる。1993年に株式会社アクシアムを創業。MBAホルダーなどハイエンドの人材に関するキャリアコンサルティングを得意とする。社会的使命感と倫理観を備えた人材育成を支援する活動に力を入れ、大学生のインターンシップ、キャリア開発をテーマにした講演活動など多数。
大阪府立大学農学部生物コース卒、コーネル大学 Human Resource修了
1997年~1999年、民営人材紹介事業協議会理事
1998年~2002年、在日米国商工会議所(ACCJ)人的資源マネージメント委員会副委員長
著書『転職しかできない人展職までできる人』(日経人材情報)

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