転職コラムキャリアに効く一冊

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2018年3月

東大理系教授が考える 道徳のメカニズム
鄭 雄一(著)

『国際化する社会へこれから旅立って行く息子たちに捧げる』

これが本書の冒頭の言葉です。世界の平和の秩序が危ぶまれ、他国との軋轢があらわになり、好戦的な保守化が進み、歴史の修正論者が力を増しつつある…そんな時代に生きていかなければならない若い世代に、ぜひ薦めたい一冊です。もちろん子どもを持つ若い親の世代の方にも読んでほしい良書です。

キャリアについて考える際、今までは政治、経済、科学、経営などの側面を中心に論じることがほとんどでした。ですがこれからは、それらに加えて倫理観や人生観といった視座が占める割合が大きくなると思います。ときには文学や宗教がテーマになるとことも多くなってくるでしょう。

「なぜ、人を殺してはいけないの?」「なぜ、いじめはいけないの?」と質問をしてきた子どもに、我々大人たちはきちんと説明ができるでしょうか? 「人を殺してはいけない」と言いながら、戦争や死刑があるこの社会。「いじめはいけない」と言いながら、領土問題や人種差別があるのが現実の社会です。「仲間を殺すことは悪いこと」だけれど、「仲間に危害を与える人を殺すことは良いこと」とする矛盾を、人間は様々な宗教論や国家論を持ち出し、正当化して折り合いをつけてきました。

孔子、アリストテレス、デカルト、カント、ニーチェ、サルトルなど、世界の思想家や哲学者たちの道徳思想をもっても解き明かすことができなかった「なぜ、人を殺してはいけないのか?」という「道徳の本質」。本書では、その本質にやんちゃ盛りの双子の男児の父親であり、東京大学大学院・工学系研究科の教授である著者が迫り、理系的視点で子どもたちにも分かるように説明しようと試みた意欲作です。

ともすると道徳や倫理は観念的・主観的に語られることが多く、その輪郭をはっきり捉えることが難しくなるのですが、本書では広く検討が加えられ、その定義やそれを踏まえた今後の方向性、そして子どもたちへの説明についても、非常にクリアに提示されています。

第1章では、「殺人が禁止される一方で死刑や戦争で人を殺すことの善悪については、はっきりしていない」という例を挙げて、道徳の混沌とした現状について問題を提起。第2章では、これまでの道徳思想が「道徳は個人個人によって決めるもの=個人原理中心の考え方」と「人間には理想の道徳がある=社会原理中心の考え方」の2つに分かれていることが述べられます。誰もが名前を知っている古今東西の思想家・哲学者の見解を紹介しながら、それらの道徳原理の構造解析に取り組んでいます。ここはとても面白い章です。

第3章では、この個人原理主義と社会原理主義の2つの考え方のどちらにも、正当性と問題(矛盾)が潜んでいることが示されます。そのうえで著者は、「道徳の本質(本音)」とは「仲間らしくしなさい、という掟である」という新たな答えを導き出すのです。そしてこの掟は、「仲間に危害を与えないこと」と「仲間と同じように考え、行動すること」という2つの要素から成り立っていると定義します。続く第4章では、そうして導いた「道徳」が動物にもあるのかが検討され、第5章では「道徳とことば」の関係について思考が深められ、最後の第6章ではこれまでの議論を踏まえて、未来に向けてどう生きるかについて著者なりの考えが示されます。

このような思考実験の道々に、著者と双子の息子さんたちとのやりとりが挿入されるユニークな構成をとっていているのも、本書の魅力のひとつ。子を持つ親御さんなら、きっと誰もが遭遇するような親子の問答シーンはとても微笑ましく感じますし、ときに、はっとさせられるような発見も与えてくれます。

鄭氏はこの問題を考えるにあたり、倫理や道徳について文部科学省の学習指導要領にどのように記載されているかを調べたとか。ですが残念ながら、一般的な曖昧表現や抽象表現にしか出会えなかったようです。一方、本書では抽象的な回答や、専門的な用語はあえて注意深く排除されています。そして理系の博士らしく仮説を立て、様々な対立する社会の諸現象を相互検証する過程をとりながら、道徳的解決案の「モデル化」を試みています。まさに『道徳のメカニズム』というタイトルがふさわしい構成・内容です。

私は本書を一読した際、アメリカの生物学者であるジャレド・ダイアモンド博士の主張を思い浮かべずにはいられませんでした。「人類は、倫理や道徳に基づいて行動を選択できる。遺伝子や進化の本能が人を殺せ、自分の子孫を残せといっても、人は倫理を働かせることができる点で、唯一動物と違うことができる」。ダイアモンド博士もまた鄭氏と同じく、昆虫や鳥を追いかけ、人類の様々な問題を明らかにしようとしておられる研究者です。名著『銃・病原菌・鉄』『文明崩壊 滅亡と存続の命運を分けるもの』で、ダイアモンド博士も地球上の人間社会の格差はなぜ生まれたのか、人間同士であるのになぜ互いに殺しあうのか、文明の本質とは何か、と問うています。あわせて読まれることをお薦めします。

余談になりますが、アメリカのビジネススクールでは経営倫理にまつわるクラスがあり、リーマンショック以降はさらにその重要性が問われているといいます。入学審査にあたっては、長らく“Ethical Dilemma”というエッセイを出願者に課す学校もありました。以前、ある入学審査官に日本からの応募者の“Ethical Dilemma”についてたずねたところ、「日本人は倫理上のジレンマを題材とせず、違法行為をするかしかないかというテーマを取り上げてしまう傾向がある」と嘆いていました。倫理上の課題を感じる経験が少ないのではないか、というのが当時の彼の日本人出願者に対する仮説でした。

倫理上のジレンマとは、合法か違法かではなく、二者択一の双方それぞれに正義や正当性、そしてまた不利益もあるような場合のことです。ですから、賄賂をもらうべきかどうかというのは倫理の問題ではなく、法律の問題。つまり、“Ethical Dilemma”のエッセイのテーマに挙げるだけで不合格です。会社の経営やビジネス・ジャッジメントにおいては、本来多数の“Ethical Dilemma”が存在します。「大量解雇を実行しなければ会社が債務超過に陥るが、急な解雇に倫理上の問題はないのか?」など。好景気・不景気の不連続が多くなると、このような倫理上の問題はより多く発生してきます。これからのビジネスパーソンは、当事者として倫理上のジレンマに遭遇することも増えるでしょう。特に国際社会では、日本で遭遇したことがないような倫理上の問題、ジレンマにも遭遇します。そのような際の思考モデルとしても、本書は大いにヒントをくれるものであると思います。

昨年秋、本書の英訳書が出版されました。英語版のタイトルは、“Diversity and Morality”。直訳すれば「多様性と道徳」ということになります。邦題である『道徳のメカニズム』を直訳すれば、“Mechanism of Morality”となるはずですが、そうはなっていません。勝手な推察ですが、邦題には、まだ世界を知らぬ日本の子ども達に、世界の人々がもつ様々な倫理や道徳の構造を科学的に解き明かし、気づきを与えたいという意図が込められているように思います。一方、英題には、混在する倫理や宗教、軋轢や争いの中ですでに生活しなければならない世界の子ども達に、単一的な倫理・道徳を押し付ける社会と、多様な倫理・道徳観を受け入れる社会の違いについて認識してもらいたいという意図があるようにも感じました。

東大理系教授が考える 道徳のメカニズム 出版社:ベスト新書/KKベストセラーズ
著者:鄭 雄一(著)

コンサルタント

渡邊 光章

株式会社アクシアム 
代表取締役社長/エグゼクティブ・コンサルタント

渡邊 光章

留学カウンセラーを経て、エグゼクティブサーチのコンサルタントとなる。1993年に株式会社アクシアムを創業。MBAホルダーなどハイエンドの人材に関するキャリアコンサルティングを得意とする。社会的使命感と倫理観を備えた人材育成を支援する活動に力を入れ、大学生のインターンシップ、キャリア開発をテーマにした講演活動など多数。
大阪府立大学農学部生物コース卒、コーネル大学 Human Resource修了
1997年~1999年、民営人材紹介事業協議会理事
1998年~2002年、在日米国商工会議所(ACCJ)人的資源マネージメント委員会副委員長
著書『転職しかできない人展職までできる人』(日経人材情報)